第65話   殿様の釣 Y   平成15年12月05日  

11代酒井忠発公(タダアキ18121876)は酒井忠器の長子として江戸に生まれる。1826年に摂津守に叙任し1842年家督を継ぐ。この人の治世は幕末混乱の時代で藩内は財政改革に絡み藩主廃立の派閥抗争に絡み勤皇佐幕の対立があり、対外的には黒船来航等があり内外とも憂慮の時代であった。そんな中安政5(1858)には長子が夭折、文久元年(1861)弟忠寛に家督を譲り隠居し、政治を裏から関与することで何とか藩論を統一し明治維新へと至る。

この酒井忠発公、若い時から根っからの釣好きであった。天保10(1839)の江戸で過ごしていた若殿時代の魚拓「錦糸堀の鮒」が日本最古の魚拓として鶴岡の林家文書の中から発見されている。

嘉永33(1850)3週間に渡る温海温泉への湯治の時7日間の朝から晩までの丸一日かけての磯釣りを楽しんでいる。釣にあまりにも熱中しすぎて帰りは松明を灯してのお帰りもしばしばであったと云う。お供の大半の武士達(百数十名)はマイロッドを持参し、殿様のご相伴の釣りを楽しんでいた。

以前「釣岩図解」を書き上げていた陶山槁木は、藩内の釣りをする武士達の要請を受けて文久3(1862)に「垂釣筌」を追加で書き完成した。この「釣岩図解」と「垂釣筌」は江戸時代の庄内藩の釣を調べるには欠かせない本となっている。この頃は釣り好きの殿様の影響で、マイロッドを自分で作る程に盛んに行われていた事が分かる。

12代酒井忠寛(タダトモ)は文久2(1862)若干24歳にて早世の為、同年僅か10歳で13代忠篤(タダズミ酒井忠発の四男)が家督を相続するが、明治元年(1868)の戊辰の役の責任を取り退き、14代酒井忠宝(タダミチ 忠篤の弟)で明治元年に一時家督を継ぐ。家老であった菅実秀の換言を要れ明治13(1881)に兄忠篤(15代)に家督を返す。この13及び1514代の御兄弟の殿様も釣が大好きで明治に入り釣りを楽しんでいる。14代忠宝公の真鯛、鷹羽(タカバ 石鯛)、黒鯛等の魚拓が今も致道博物館に常展示されている。この殿様明治14103日の新潟県の笹川流れの脇坂村での釣果は赤鯛10枚を釣り最大の物は二尺八寸五分(86cm)だったと云う。

1800年代後半になると以前(17001850年)の殿様の釣が雑魚ばっかりであったのに対し黒鯛も盛んに釣ったが、魚の王者である赤鯛をそれも三尺を釣るのを目標にしていたようだ。流石殿様の釣である。